ドイツの成り立ち
ヨーロッパの歴史をほとんど知らない私にとって、ドイツ旅行中にドイツという国の成り立ちに関心を持つようになりました。また、旅行中に「神聖ローマ帝国」という言葉を聞くたびに、ドイツなのになぜローマ帝国なのかがとても疑問でした。
そもそも、ドイツという国家は、単一の国家として長い歴史を持つわけではなく、中央ヨーロッパに位置する地域が様々な歴史的過程を経て現在の姿に至りました。その複雑な歴史的変遷を時代ごとに説明します。
古代から中世初期:ドイツの原型
ゲルマン民族とローマ帝国
ドイツという地域は本来、ヨーロッパの中央部のおよそライン川とエルベ川にはさまれた地域を指し、歴史上はゲルマン人の居住地として始まりました。紀元前にはケルト人とイリュリア人の文化が栄え、紀元前後の頃にはライン川・ドナウ川流域で古代ローマ世界と接触するようになりました。
重要な転換点となったのは9年のトイトブルク森の戦いで、ゲルマン人がローマ軍に勝利し、ローマはこの地域を支配することができませんでした。
そして、この地域は古代ゲルマニア(Germania)と呼ばれ、「ゲルマン人の地」を意味する古代ローマ時代の地名です。おおよそライン川の東、ドナウ川の北、東はヴィスワ川、北はバルト海に囲まれた広大な地域を指します。現在の地理でいえば、ドイツ、オランダ、ポーランド、チェコ、スロバキア、デンマークなどを含む中央ヨーロッパの大半に相当する地域です。
フランク王国からドイツへ
5世紀、フランク人がライン川流域で勢力を拡大し、メロヴィング朝を開きました。その後8世紀後半にカロリング朝となり、カール大帝の下で現在のフランス、ドイツおよび北イタリアを含む広大な地域を支配しました。カール大帝は800年にローマ皇帝の冠を教皇から受け、西ローマ帝国の復活を象徴しました。
カール大帝の死後、フランク王国はゲルマン人社会の分割相続の原則に基づき、843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約によって三つに分裂し、このうちの東フランク王国が現在のドイツの起源とされています。
中世:神聖ローマ帝国の時代
東フランク王国からドイツ王国へ
911年、カロリング朝が断絶し、コンラート1世が王位を継承しました。これが「ドイツ」国家の出発点と見なされていますが、「ドイツ王国」という名称が一般化するのは12世紀になってからのことでした。
919年、ザクセン朝のハインリヒ1世が王位につき、国内の有力諸部族を王権に組み込み、ドイツ国家形成の基礎を築きました。
神聖ローマ帝国の成立
962年、ハインリヒ1世の子であるオットー1世は、ローマ教皇から皇帝の冠を授けられ、これが神聖ローマ帝国の起源とされています。ただし「神聖ローマ帝国」という呼称が使われるようになったのは13世紀以降のことです。
神聖ローマ帝国は中央政府の権限が弱く、多数の諸侯が実質的な権力を持つ分権的な体制でした。皇帝はローマでの戴冠にこだわり、常にイタリア方面を意識したイタリア政策を重視したため、ドイツ国内では皇帝の存在感が薄れていきました。
東方植民と帝国内の発展
12~13世紀には、東方植民によってドイツ人の居住地域が東方に拡大し、バルト海沿岸まで広がりました。またハンザ同盟が形成され、北ドイツの都市が国際貿易で繁栄しました。

近世:宗教改革と三十年戦争
宗教改革の衝撃
1517年、マルティン・ルターが宗教改革の端緒を開きました。ルターによるドイツ語への聖書翻訳は、カトリック教会の権威を揺るがし、ドイツ語圏に共通の文化的アイデンティティを与える契機となりました。
三十年戦争と帝国の衰退
17世紀前半(1618~48年)の三十年戦争は、プロテスタントとカトリックの対立に加え、ハプスブルク家とブルボン家の権力争いが絡み合った大規模な国際戦争となりました。戦争の結果として1648年のウェストファリア条約が締結され、ドイツ諸邦の主権が認められ、皇帝権は著しく弱体化しました。この条約は「神聖ローマ帝国の死亡診断書」と呼ばれています。
近代:プロイセンの台頭からドイツ統一へ
プロイセンとオーストリアの台頭
18世紀にはプロイセンとオーストリアが神聖ローマ帝国内で二大勢力として台頭しました。特にプロイセンのフリードリヒ2世(大王)は啓蒙専制君主として統治し、オーストリアとの戦争を経て、ドイツ最強の国家となっていきました。
ナポレオン戦争とドイツの覚醒
1806年、ナポレオンの侵攻によって神聖ローマ帝国は消滅し、ドイツはライン同盟などに再編されました。ナポレオンの支配とその後の改革により、ドイツ社会には国民国家としての意識が芽生え始めました。
1848年革命と統一への模索
1848年のフランクフルト国民議会では、ドイツ統一に向けた議論が行われましたが、小ドイツ主義(プロイセン中心)と大ドイツ主義(オーストリアを含む)の対立や、プロイセン国王の拒否によって頓挫しました。
ビスマルクの「鉄血政策」による統一
1862年、プロイセンの宰相に就任したビスマルクは「鉄と血による政策」を掲げ、三つの戦争(デンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争)を通じてドイツ統一を実現しました。1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿でヴィルヘルム1世が皇帝に即位し、ドイツ帝国が成立しました。これは現在のドイツの原型となる初めての統一国家でした。
20世紀:二つの世界大戦と分断国家
第一次世界大戦とヴァイマル共和国
第一次世界大戦の敗北後、1918年11月のドイツ革命によってヴィルヘルム2世は退位し、共和制国家が成立しました。1919年にはヴァイマル憲法が制定され、ヴァイマル共和国(正式には「ドイツ国」)が誕生しました。しかし、戦争の敗北とヴェルサイユ条約の厳しい条件に加え、1929年の世界恐慌の影響で、共和国は次第に弱体化していきました。
ナチス政権と第二次世界大戦
1933年1月30日、ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)が政権を獲得し、急速に独裁体制を確立しました。ヒトラーはヴェルサイユ体制を打破し、ドイツの「生存圏」拡大を目指して、1939年9月1日にポーランドに侵攻し、第二次世界大戦を引き起こしました。戦争は1945年5月、ナチス・ドイツの無条件降伏によって終結しました。
東西冷戦と分断国家
第二次世界大戦後、ドイツは連合国によって四つの占領地域に分割され、東西冷戦の深刻化に伴い、1949年に東西に分裂しました。西側の米英仏占領地域にはドイツ連邦共和国(西ドイツ)が、ソ連占領地域にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立しました。
1961年にはベルリンの壁が建設され、東西の分断が象徴的に示されました。
現代:再統一と欧州統合
東西ドイツの再統一
1970年代に始まった西ドイツのブラント首相の東方外交は、東西両国の関係正常化に道を開きました。1989年の東欧革命の波及で東ドイツ体制が崩壊し、同年11月9日にはベルリンの壁の開放が実現しました。翌1990年10月3日、東ドイツが西ドイツに編入される形でドイツ再統一が達成されました。
統一ドイツと欧州統合
統一後のドイツはコール首相、シュレーダー首相、メルケル首相(ドイツ初の女性首相、2005-2021年)らの下で、欧州統合の深化に貢献するとともに、自国の過去と向き合い、国際社会での責任ある役割を果たしてきました。
2021年12月には、社会民主党(SPD)、緑の党、自由民主党(FDP)による三党連立政権の下、オラフ・ショルツ氏が連邦首相に就任し、現在に至っています。
ドイツ連邦共和国
現在のドイツ連邦共和国は、人口約8,482万人(2023年6月)、面積35.7万平方キロメートル(日本の約94%)の国家です。16の連邦州からなる連邦制国家であり、議院内閣制、代表民主制の共和国です。
ドイツは欧州連合(EU)の中核メンバーとして、欧州の経済的・政治的安定に主導的役割を果たしており、また北大西洋条約機構(NATO)にも加盟して、国際的な安全保障にも貢献しています。
ドイツのアイデンティティ
ドイツの成り立ちは、単一の国民国家として一直線に発展してきたのではなく、複雑な歴史的過程を経ています。中世の神聖ローマ帝国時代の分権的な体制、宗教改革によるプロテスタントとカトリックの分断、領邦国家の時代における文化的統一と政治的分裂、19世紀のナショナリズムの高まりと統一運動、20世紀の二つの世界大戦と東西分断という苦難を経て、現在の民主的な連邦共和国に至りました。
この重層的な歴史の中で、ドイツは中央集権的な国家モデルではなく、多様性を内包した連邦制を維持しながら、欧州統合という枠組みの中で自らの役割を再定義し続けています。ドイツの国家形成の特徴は、まさにこの複雑な歴史から生まれた多元的なアイデンティティと、それを調和させる政治制度にあると言えるでしょう。