ハンザ同盟について
ハンザ同盟(ハンザどうめい、独: Hanse)は、中世後期から近世初期にかけて北ヨーロッパで栄えた都市同盟で、北海およびバルト海沿岸地域の貿易を掌握し、ヨーロッパ北部の経済圏を支配した商業ネットワークです。12世紀頃に始まり、14世紀に最盛期を迎え、17世紀中頃まで存続しました。
ハンザの意味と始まり
「ハンザ」という言葉は古高ドイツ語で「団体」を意味し、もともとは都市の間を交易して回る商人の組合団体を指していました。日本語で「ハンザ同盟」という表現が使われますが、これは原語に直訳すると「同盟同盟」と言うような二重表現です。
ハンザの起源は、11世紀頃から活発になったドイツ人の東方植民とキリスト教の東方布教に伴う商人活動にさかのぼります。12世紀頃から、海港都市ごとに商人仲間が団体(ギルド)を作るようになり、これが「商人ハンザ」と呼ばれる初期の形態でした。
商人ハンザから都市ハンザへ
ハンザの発展は大きく分けて「商人ハンザ」(12~14世紀中頃)と「都市ハンザ」(14世紀中頃~17世紀中頃)の二つの段階があります。
最初の段階では、北海・バルト海交易において遍歴商人(特定の街に定住せず、各地を回って商品を売買する商人)が主流でした。彼らは穀物、木材、毛皮など生活必需品を扱い、バルト海ではスウェーデンのゴトランド島のヴィスビーを中継拠点にして活動しました。
13世紀になると「定住商人」が台頭し、本拠地となる都市に定住しながら商業活動を行うようになりました。これに伴い、ハンザの性格も商人団体から都市同盟「都市ハンザ」へと変質していきました。
リューベックの台頭
ハンザ同盟の中心となったのはリューベックでした。1143年に建設されたリューベックは、1227年に帝国都市としての地位を獲得し、いかなる領主の支配にも属さない帝国直属の都市となりました。リューベックの法律や商慣習は周辺の都市にも普及し、多くの「娘都市」を生み出しました。
1241年、リューベックとハンブルクの間で同盟が結ばれ、これが後のハンザ同盟の基礎となりました。その後、ヴェンド同盟と呼ばれるリューベック、ロストック、ヴィスマールの3都市による同盟も形成され、さらに多くの都市が加わっていきました。


ハンザ同盟の特徴
組織構造
ハンザ同盟は一般的な「同盟」とは異なり、明確な条約や規則をもつものではありませんでした。その結びつきは比較的緩やかで、中央機関としてはハンザ総会のみが存在し、その実務はリューベックの市参議会(ラート)が行っていました。決定方法は全会一致でしたが、強制力は弱く、決議を守らない都市も少なくありませんでした。
ハンザ同盟は純粋に経済的な目的で結成されたもので、基本的に軍隊を持たず、平和的な交渉を基本方針としていました。ただし、1368年のデンマークとの戦争のような例外的なケースでは、臨時に合同艦隊を編成して戦うこともありました。
商業活動
ハンザ商人が扱った主な交易品は以下のようなものでした:
- フランドルの織物
- バルト海のニシン(年間数十万トンが塩漬けにされて輸出)
- ドイツ騎士団領からの木材、こはく
- ポーランド王国からの穀物
- ロシア方面からの毛皮(クロテン、熊、リスなど)
ハンザ商人は現金・現物による即時決済を中心とする堅実な商業活動を行っていたため、イタリア商人と異なり信用経済は発達せず、銀行・保険などのシステムは未整備のままでした。その代わり、リスクを分散させる船舶共有組合が発達しました。
外地商館
ハンザ同盟は外地に「商館」を設置しました。特に重要だったのは以下の四大商館です:
- ロンドン商館(イングランド)- 「スチールヤード」とも呼ばれた
- ブリュージュ商館(フランドル、現在のベルギー)
- ベルゲン商館(ノルウェー)- 「ドイツ人の橋(ブリッゲン)」と呼ばれた
- ノヴゴロド商館(ロシア)- 「聖ペーター・ホーフ」と呼ばれた
ハンザ同盟の衰退と終焉
衰退の要因
15世紀以降、ハンザ同盟はさまざまな要因によって衰退していきました:
- ヨーロッパ諸国の中央集権化:イングランド、オランダ、ポーランド、ロシア、北欧諸国など主権国家が成長し、純粋な経済都市同盟に存続の余地がなくなっていきました。
- 商業競争の激化:イングランド商人やオランダ商人がバルト海に進出し、ハンザ商人と競合するようになりました。
- 内部対立:商業主導の上層商人と手工業者の間で「市民闘争」が発生し、都市内部の結束が弱まりました。
- 宗教改革の影響:ハンザ都市間でルター派、カルヴァン派、再洗礼派など宗教的対立が生じました。
- 外地商館の没落:ノヴゴロド(1494年)、ブリュージュ(1530年代)、ロンドン(1598年)などの外地商館が次々と閉鎖されました。
終焉
16世紀終わり頃には、ハンザ都市はリューベック、ハンブルク、ブレーメンの3都市のみが業務を請け負う状態となりました。三十年戦争(1618-1648年)によってドイツ全土が荒廃すると、ハンザ同盟は完全に四分五裂しました。
1648年のウェストファリア条約には、リューベック、ハンブルク、ブレーメンの3都市が全ハンザ都市を代表して参加しましたが、1669年を最後にハンザ総会は開催されなくなりました。これがハンザ同盟の実質的な終焉とされています。
ハンザ同盟の遺産
ハンザ同盟は消滅しましたが、その遺産は今日まで残っています。リューベック、ハンブルク、ブレーメンの3都市は「自由ハンザ都市」として特別な地位を持ち、現在のドイツでも「ハンザ都市リューベック」「自由・ハンザ都市ハンブルク」「自由ハンザ都市ブレーメン」という正式名称を持っています。車のナンバープレートにはそれぞれHL(Hansestadt Lübeck)、HH(Hansestadt Hamburg)、HB(Hansestadt Bremen)という頭文字が使われています。
1980年にはオランダのズヴォレで「新」ハンザ同盟が結成され、かつてのハンザ都市を中心に文化交流や観光促進を目的とした活動が行われています。現在では175都市が加盟しています。
ハンザ同盟に関連する世界遺産としては、以下のものがユネスコに登録されています:
- ブリッゲン(ノルウェー・ベルゲン)
- ハンザ都市リューベック(ドイツ)
- ハンザ同盟都市ヴィスビュー(スウェーデン)
- シュトラールズントとヴィスマールの歴史地区(ドイツ)
また、2023年にはハンザ同盟の歴史に関する文書が「世界の記憶」にも登録されました。
ハンザ同盟の歴史的評価
ハンザ同盟の歴史研究は1870年代のドイツで本格化しました。当初は「ドイツ民族の栄光」として国家主義的に解釈されていましたが、現在では国際的・多文化的な商業ネットワークとして評価されています。
ハンザ同盟は、純粋に経済的目的で結成された都市連合体であり、政治的・軍事的な同盟ではなかったという点で歴史的に特異な存在でした。中世ヨーロッパにおける都市の自治と商業の発展を象徴する存在として、現代のEUなどに見られる国際協力の先駆とも評価されています。これらの商館は現地の役人や商人と折衝しながら、同盟都市の利益を守る活動を行いました。